使える経済書100冊

使える経済書100冊 / 池田信夫

使える経済書100冊 『資本論』から『ブラック・スワン』まで (生活人新書)

使える経済書100冊 『資本論』から『ブラック・スワン』まで (生活人新書)


著者はネットでは良く取り上げられる有名経済学者の池田信夫。本書では池田信夫がWEB上でアップした書評がジャンル分けして紹介されています。全部かはわかりませんが多くがネット上で読めるので買ってまで読む必要があるか、とは思いますが、やはり書物という物体なので読みやすさは格段に上がっています。そのリーダビリティにどこまでお金を払えるかが購入の指標となるのではないでしょうか。


■最新の経済書が多め
題名にもあるとおり100冊分と厖大な書評が纏められています。
選別された紹介本は古典は僅かで、現代に即した本ばかりでどれも参考にならないといったことはありません。古典が既に無効化したというつもりは毛頭もありませんが、現実の具体的な事象とは接点がありません。一方で、最新の本は現実と接しているものの将来を見通すほどに視野が豊かではないという二律背反の関係にあります。このバランスの具合が上手で、現代の経済社会を洞察する上で参考になる本ばかりと思えました。


■ボリューム
本書の総ページ数が250ページ弱なので、一冊に割り当てられたページ数は2頁程度と非常に短いです。読む前にこの短さで何が語れるのか疑問にも思いましたが読んでみると意外と身が詰まっている印象を受けました。それは少ないページ数で何もかも語ろうとしない思い切りの良さによるものかもしれません。万遍なく語ろうとせず、一つピックアップして終わりという纏め方が書評を凝縮させていると思います。


■重視され過ぎな書評者
難点。池田信夫自身の意見が紹介本の説明よりも圧倒的に重視されていることが挙げられます。
全体として、各紹介本のうち池田信夫が興味ある部分を少しピックアップして彼の持論と結びつけて説明して終わり、という書評が非常に多いのですが、その持論の語りの割合が大きすぎます。2ページで各紹介本の満足な説明と、書評者ならではの特別な観点を取り入れるのは困難ではあるので、そうせざるを得なかったと私も考えます。しかし、ここまで紹介本自体が軽視されると少し困るとも思います。それぞれの本がどのような本であるのか丁寧な説明は一切ないのですから。この100冊を元に経済の勉強をするぞ、という完全な無知識の人には薦められません。


■本書が向いているひと
そういう意味で「書評者の偏った意見なんか興味ない。公平に使える経済書の説明をしろ」と考えている人にとっては本書は非常に不向きです。本書には教科書案内という性質はあまりないですから。
本書に最も向いている人は【池田信夫による】書評が読みたいという人だと思います。書評本が読みたいという人でもなく、経済本の読書案内を求めている人でもありません。【池田信夫】の知見を読みたいという人です。その次に向いている人は、書評者自身の意見を前面に出している書評本が好きな人かと思います。私がこのタイプです。ただ私にとっては少し書評者がアップされすぎていると思いましたが…。


■まとめ
少々、難点を多く書きすぎましたが決して悪い本ではありません。むしろ良書です。選別された本は素晴らしいものばかりですし、書評にもセンスがあると思いました。また経済書と謳っていながら社会、歴史、哲学の分野の本も取り上げるジャンルの幅もポイントだと思いました。クセがあるだけで書評本としてレベルが高いと感じました。上述した通りネット上でも読めますが、本書の想定読者とするビジネスマンは時間がないでしょうから電車の中でも読める本書は非常に向いていると思います。


■題名が合ってない
最後に一つ。
本書の題名に【使える】という言葉が入っていますが、これは不適切だと思います。【使える】という言葉を題名の先頭に持ってくるほどに即物的なHowto本は一切紹介されていないのですから。広い意味では確かに【使える】のでしょうが、題名から受ける印象とは異なっています。
本書の冒頭にある「世界経済や日本経済を考える上で参考になる本」という言葉の方が余程本書を表しています。ビジネスマンに広汎な教養的な知識を授けたいと思っていながら、ビジネスマンはビジネス書のような即物的なものを求めたがるというイメージに合わせた題名なのでしょう。苦肉の策だったのかもしれないですが、少々この名前はないなぁと思ったので書いておきます。


****下記リンクは紹介された100冊の本****
紹介された100冊の本

若き数学者のアメリカ

■若き数学者のアメリカ / 藤原正彦

若き数学者のアメリカ (新潮文庫)

若き数学者のアメリカ (新潮文庫)

題名のイメージに惹かれて買ってみました。珍しくどんな本かも考えずに買ったせいか本書を勝手に、数学を国家的に利用することを推進し始めたアメリカの話と見当違いな想像をしちゃってました。あれ〜、全然数学の話がないぞ。どういうことだと思ったら、”若き”が”アメリカ”ではなく”数学者”にかかっていたわけです。なんと間抜けな勘違い、無駄な出費だった、と落胆したものの読んでみると中身は興味深く面白い。調べてみると有名なエッセイだとか。決して悪い買い物でもないし、無駄でもない。運が良かったです。


あらすじ

1972年の夏、ミシガン大学に研究員として招かれる。セミナーの発表は成功を収めるが、冬を迎えた厚い雲の下で孤独感に苛まれる。翌年春、フロリダの浜辺で金髪の娘と親しくなりアメリカにとけこむ頃、難関を乗り越えてコロラド大学助教授に推薦される。知識は乏しいがおおらかな学生たちに週6時間の講義をする。自分のすべてをアメリカにぶつけた青年数学者の躍動する体験記
//裏表紙より

■理知的な文章
私が本書を気に入っている点として、理知的で美しい文章とその優れた分析力があります。


本書の著者が数学者であることが関係しているのか、全体的に冷静な視点で論理的に物事を語ろうという姿勢が強く見られます。
例えばラスヴェガスでカジノに嵌ってしまって虎の子の300ドルを失ったという話。それを要約してしまえば、負けたのが悔しくて感情にまかせて勝負を誤ったという話なのですが、「くやしい!ふざけるな!」という感情的な賭博師の回顧では終わりません。
その場面でなぜ自分は賭けに出たのか、周りのプレイヤーの様子は、勝負に対する理論的考察は、という止めどない冷徹な思考が存分に語られます。ひたすら周りに対して「なぜこれはこう存在しているのか」と問い掛け続ける観察者の視点が特徴的といえるでしょう。
その文章を読むと一見「本当は悔しくないのか」と思ってしまうのですが、ちゃんと読めば無感情なわけではありません。ただその場全体の様子を観察し分析するために達観し、自分自身の感情も観察対象とする距離の取り方が目立って悔しがってないように見えるだけなのです。


この事象、その事象から受ける感情、その感情を想起する自身とは如何なるものなのか。なぜこの山は美しくないと感じるのか。なぜ少女の言葉に涙が出るのか。なぜなぜなぜ。このようにひたすらに内省し、事実を理論に昇華させる努力が数多く見られます。そのせいか事実に対する描写よりも、その事実に対する著者の分析がやけに多かったという読後感が残りました。その分析の優秀さは数学に対してだけではありません。社会、人物、文化すべてに対する分析が優秀であることは珍しいと思います。
数学者は室内で閉じこもっていて社会に対しての視点は乏しいものであると思っていたのですが、こんなにも人文的な分析力も持っているのかと驚かざるを得なかったです。


■エネルギッシュな数学者
著者が数学者というと理屈屋であり詩的な側面はない、叙事的であり叙情的でない、という印象を持つ人がいるかもしれません。しかし、本書の目を見張るべきところは、徹底的に冷静に観察をするものの感情のほとばしりを蔑ろにせず、どんな情感が想起されたかを丹念に描いていることでしょうか。
外面は硬い皮膚に覆われているものの、内面は熱くたぎっている。そんな印象です。ですので読んでいて「淡々と話が進むなぁ」と不満げに思ったことは一度もありませんでした。物語らしく上手く纏められているせいか一気に読み進めることができ、読後感も好印象の一言です。


この精緻な分析と詩的な語りの融合ということを鑑みると、本書が名エッセイであると持て囃されているという事実に納得できました。

クリムゾンの迷宮

クリムゾンの迷宮 / 貴志祐介

新世界より』『青い炎』『黒い家』で有名な作家の貴志祐介による、バトルロワイヤル系ホラー小説『クリムゾンの迷宮』を読みました。
いやー、本当に面白かったです。ホラーのようなサスペンスのような話で、人が死んだり戦ったり襲われたりします。お約束として主人公は死なないとは予想できるものの怖くなってしまうのは毎度不思議ですが、いつのまにかそう感じてしまうのだから仕方ない。恐怖のような好奇心のような気持ちが拍車をかけて400頁くらいある文庫本を一日で一気に読み終わらせてしまいました。この読者の気持ちを揺さ振りながら掴んで離さない力が凄まじいのです。一度途中まで読んでしまったらもう止まりません。先が気になって仕方ない!
今の私の気持ちとしては傑作です。今年読んだものの中で特に上位に入りますね。そんなわけで紹介。


■あらすじ
あらすじは以下の通り。

藤木芳彦は、この世とは思えない異様な光景のなかで目覚めた。視界一面を、深紅色に塗れ光る奇岩の連なりが覆っている。ここはどこなんだ?傍らに置かれた携帯用ゲーム機が、メッセージを映し出す。「火星の迷宮へようこそ。ゲームは開始された……」それは血で血を洗う凄惨なゼロサム・ゲームの始まりだった。
//裏表紙より


主人公・藤木芳彦はバブル崩壊後に職を失いホームレス経験もある元証券マン。全編を通してこの藤木の一人称視点から話が語られます。登場人物は藤木含め9人(男7人女2人)。藤木以外の人物も藤木同様に訳も分からずこのゲームに参加しているという共通性はあるものの、協調性を持った人物はごく僅か。どこか陰りを見せる会話が先に待つ決定的な場面を想起させます。藤木の味方側もいるにはいますが、当然ながら完全に信用はできません。いつか裏切るのではと思わせる行動を所々で起こし、それが緊張感を維持させます。


このゲームのルールは何か。途中で仄めかされるまでは分かりません。それまでは勝利条件も分からないし、何が目的なのかも分かりません。ただ謎に包まれています。だから、現実的な保身の気はあるものの排他的でない善良側の藤木はチームプレーの望みを捨てません。あるきっかけからパートナーとなった人物も謎はあるものの善良側に属し、藤木と共に他人を蹴落とし過ぎない勝利を目指します。


この善良側だからって利他的じゃないところがいいですね。違和感を覚えることはない善良さです。どっちかっていうとチームプレーが結果的に有利な展開を導くことを知った上での打算的な善良さですから。主人公らしいといえば主人公らしい。


このチームプレーが有利か不利かという問いは繰り返し問われます。勝利報酬が有限で勝利者の数によって報酬の量が変わる場合、つまりゼロサムゲームです。ゼロサムゲームだったら他人を排除する必要がある。だがしかし。ルールが分からないので具体的にどこまで”排除”する必要があるのか。という感じでですね。
しかし、ある場面でゲームルールが明確になります。ルールは単純極まりません。バトルロワイヤルものだと聞けばわかるでしょう。その場面を過ぎれば先に待つエンディングはもう特定でき、藤木たちの行動も何をすればいいか分かります。それは同時に各プレイヤーの行動も分かってしまうのですが。ここからは「対象がよくわからないホラー」から「怖がる対象が明確なホラー」へと変わります。


この曖昧な恐怖と明確な恐怖の転換を、本作品を前半後半を分けるための指標とすると、私は前半の方が好きです。どこか怪しい雰囲気が好奇心を湧かせ、ページをめくる手が止まりませんでした。「どうせこの作家のことだから性格が悪すぎるやつが何かするんだろうなぁ」とは思っているものの、誰がするかも分からないことがぞっとさせ、びっくりするくらいの興奮を呼びました。ここまで興奮したのは本当にあまりありません。
このルールが分かっていない状況で小出しに、ただし明確なルールが段階的に提示されることも物語に輪郭を持たせ、話にのめり込んでいくことに多大な影響を与えています。新しいルールがわかるたびに各プレイヤーの行動を推測し直して展開を読むという楽しみもあるからでしょうか。



■見える伏線
本作品には伏線が見えるという特色があります。伏線が見えるという意味は、例でいうと「この先でだれかが死にます。その先でだれかが裏切ります。その先で」というように、ある程度の輪郭だけが提示されるもののその詳細が、大事な部分だけが提示されていない伏線です。
この伏線が大量なので展開が予想でき、そういった意味で本作品は展開が非常に単純な感があります。そのせいか、本来の見えない伏線だけなら再読も楽しめるものの、本作品のようにあからさまに見える伏線は再読には耐えません。一度きりの燃え上がる興奮を起こすことに特化しているという印象を受けました。


この見える伏線は作品の結末までも見せます。その伏線が張られた時点で結末が完全に予想できます。この点は賛否両論なのではないでしょうか。それでも私は結末に対して悪い印象は受けませんでしたが驚きはありませんでした。エンディングがすべてに優先する小説ではないと捉えていたために期待もしていなかったからかもしれません。


ただ全体的には見える伏線は物語に良い影響を与えています。特に見える伏線が効果的だった場面は、最初で最後にプレイヤーが一堂に会した場所を起点として組になって東南西北に向かい別れるという場面です。東南西北にそれぞれ別の性質を持ったアイテムが置いてあるというルールの開示を元にして分かれるのですが、どの性質を欲しがるかによってプレイヤーの性質を読めるという助言が、別れたあとに主人公たちだけに提示されます。ここであるアイテムを求めた人物に対する助言がぞくっとさせられました。それは今後の展開が波乱に満ちたものであるという予想を増大させた場面です。


こうした見える伏線を小出しに与えて気を惹き付ける方法が感心するほど絶妙なことが、私が本作品を傑作であると思う印象に並々ならぬ影響を与えています。こうしたテクニックが好きな人にとっては間違いなくフィットするのではないかと。


■圧倒される残酷な人間の描写
本作品のジャンルは一応ホラーに属するのですが、ホラーで重要なポイントは当然ながら恐怖を起こす描写です。
本作品の登場人物の人格造形とその物語に対する関わり方を見ると、『黒い家』と同じく、いやに老獪で残酷な性格を持った人間が場を恐怖に導きます。この場を恐怖に覆わせる人物の描写とそれに由来する恐怖感を起こす技術は、私が知っている小説家のなかでもトップクラスに属します。
殺す様子を強調して描写するものの、少しも感情を隆起させない残酷描写をする小説はいくらでもあります。ただ冗長に説明をするだけの小説では恐怖感が起きたことはありません。長いことや細かいことだけでは読者に恐怖感を覚えさせるのは難しいのです。
貴志祐介は残酷なことを残酷に伝える、描写に情感を持たせて読者に伝わらせることができる珍しい作家です。そういった意味で飛び抜けた実力があるのは間違いありません。
この原因はなにかといえば、殺す描写ではなく殺人者の現実的な人格と異質さを微妙なバランスでうまく描くことに注力していることでしょうか。話の中にはいかにもフィクションチックだな、と思う人物はいません。確かにこんなやついるなと思える人物に殺人を犯させる、その現実と非現実の隔たりの曖昧さが読者の心に作用するのだろうと思います。

知性の限界

知性の限界 / 高橋昌一郎

知性の限界――不可測性・不確実性・不可知性 (講談社現代新書)

知性の限界――不可測性・不確実性・不可知性 (講談社現代新書)

本書が扱うのは3つの限界、言語の限界、予測の限界、思考の限界です。3つの詳細はこんな感じ。


言語の限界
哲学者:ウィトゲンシュタインクワイン
議題:言語理解のパラドクス、言語ゲーム、指示の不可測性


予測の限界
哲学者:ポパー、ナイト
議題:帰納法のパラドクス、反証主義、予測の不確実性、未来予測の限界と可能性、複雑系


思考の限界
哲学者:ファイヤアーベント、カント
議題:人間原理、知のアナーキズム、不可知性、人間思考の限界と可能性



本書の最も際だった特徴は2つ。学問の多面性を扱ったこととその読みやすさです。


■学問の多面性
1つめの学問の多面性を扱ったことから説明します。
本書は、論考が多彩な登場人物が繰り広げるディベート形式で進められます。著者の一人芝居とはいえ、哲学者、論理実証主義者、反証主義者、経済学者、科学者、普通の学生、社会人のキャラクターを見事に創り上げられていることには関心します。


議論の話題を提供する学者キャラクタが語る内容は一見どれも瑕疵のない真理のようにも見えます。これだけだったら普通の本でも見られることでしょう。しかし本書では、その一見正しいように見える全ての意見が、実はツッコミどころがあることを分かりやすく露呈させます。


会社員や学生といったなにも特別な知識のない立場からの「普通な疑問」を別の反論者がキャッチし、話題提供者を反駁する。そうすることによってウィトゲンシュタインポパーなどの「完全無欠の」証明が、「限定的に」正しい証明に過ぎないことがよくわかるのですが、この点が類書にない稀有なポイントです。


■一般人目線のディベート
2つめの特徴の読みやすさのポイントは、一般人目線を取り入れたディベート形式ということです。
一般人も混ざったディベートということで、各登場人物が使う言葉は本当にごく普通の言葉であり、専門用語を誰もがすんなり理解できるという前提で議論は進みません。誰もが分かる言葉で進められるのです。
実はこのことは凄いです。難しいことをそのまま難しく書くのは普通のことでしかありません。しかし難解なことを簡単な普通の言葉にするのは、本当に難しいことだからです。この普通の言葉によって説明される事柄はわかりやすいですし、共感もしやすいのです。


読みやすさに貢献しているものとしてもう一つ。。
取り上げられる学問が私たち一般人の生活とどのように結びついているか砕いて考える間があることや、過激な論者が振り回す極論を司会者が遮ったり、否定し合いのディベートの混乱具合を見る喜劇的な面白さは本書全体の流れに緩急を持たせています。特にカント主義者のぞんざいな扱いとか、フランス国粋主義者の空気の読めなさなどはユーモアに溢れていますが、現実でもそうなのかと興味も湧きます。


こういった読みやすさの配慮をみると、象牙の塔と評されやすい学問を現実と結びつけ、一般人の読者にも学問とは現実と乖離したものではない役立つものであるとわかってほしい、という考えが著者にあるのではないかと思いました。


■知識の闇鍋もの
ところで、私はこういった知識、学問の闇鍋ものは大好きです。


本書でも挙げられているウィトゲンシュタインやカント、複雑系は有名な人物・事象であり、その専門的な内容を説明した本は決して少なくないです。そのため、例えばウィトゲンシュタイン哲学の前期・後期の詳細な研究内容について調べるなど、「深く狭く」は比較的楽にできるのです。
しかし、逆、つまり「浅く広く」はどうかというと、ある段階を超えると少ないものです。ある哲学者の全体、言語哲学の全体、哲学者の全体というのはあります。ですが哲学を超えて科学(自然科学)も含めたものになると数が少ないのです。だからこそ、本書のような哲学から科学まで詰め込んだ、ごった煮のような闇鍋のようなジャンルを「広く」扱った本は貴重なのではないでしょうか。


読了感を振り返ってみると読書意欲が急伸したように思いました。知識の闇鍋ものを書き上げるには、その広範囲な対象を飲み込むための貪欲さと、それら学問に緻密な掛け橋を作るための労力が必要です。結果、著者自身に学問への熱情が不可欠となり、その熱情が読者を思索へ煽り立てるように感じるのです。そして私はその熱気に煽られるのが好きで仕方ありません。ついつい、本の中で言及されているような研究やそれに類するものを何冊かだけでも読んでみるか、という気になってしまいました。

マネーの進化史

マネーの進化史 / ニーアル・ファーガソン

マネーの進化史

マネーの進化史


マネー。カネ。
現代において最も生活に密接した存在の一つです。現代社会ではマネーがなければ生活さえできませんし、マネーさえあれば幸せになれるという拝金主義も今では普及しきった感があります。そのマネーは一般人の生活だけには留まりません。経済活動の占める位置が時間とともに幅を拡げるにしたがい、戦争といった人間集団が行える最大の破壊活動さえにも多大な影響を及ぼすほどにもなりました。現在、マネーはそれほどに社会の重要な要素とまでなっています。


そのマネーは、古代から現代までに幾度も形を変えてきました。
近代まで世界中で使われ続けてきたマネーの象徴である金銀。現代にほど近い時代になってからは紙幣。今ではコンピュータの画面上で表示される数値がマネーの姿です。振り返って見ればマネーは時代の変遷とともに形を変えてきました。
変わったのはマネーの形、外見だけではありません。マネーに関わる金融制度も常に表裏一体に進化をし続けてきました。その金融制度は社会をあらゆる面から支えています。ローン、クレジットカード、国際為替、通貨などなど。例を挙げればきりがありません。
これらは全て一歩道を外せば国家を破滅へと導くほどの影響力を持った金融制度です。サブプライムローンの崩壊、アジア通貨危機ハイパーインフレによって壊滅したアルゼンチン、ドイツ。破滅の例もまたきりがないのです。


私たちに馴染み深く、恐るべき力を持っており、進化を続けて社会を支えるマネー。その多面性は本質を捉えさせにくくします。歴史とともに形も、役割も、力も変えてきたことも関係しているのでしょう。その摩訶不思議な存在であるマネーが文明の誕生以来どのように進化してきたのか、著者は追い続けます。明かされていくその進化の過程を眺めることによって私たちはマネーの本質の一端を見ることができるでしょう。


この壮大な試みを為そうとした本書はマネーにまつわるものを網羅しており、500ページにも及ぶ重厚さとなっています。信用制度、債券市場、株式市場、保険、不動産、金融市場。どれもマネーに絡む重要事項です。金融制度の黎明期である13世紀から、現代の金融危機サブプライムローンまで数百年に及ぶ歴史と、現代のグローバリズムを表わすかのように世界中を横断してマネーの進化を語るところに著者の力量の非凡さが伺えます。マネーに関わる要点は全て抑えておくと意気込んでいるのか情報量の密度と考察の精巧さは類い希なるほどに高度で、驚嘆してしまうでしょう。だからこそ金融の進化史を語るべく全てを包含しようとした本書は実に読み応えがあるものとなっています。
しかも、ただの教科書、学術書のように無味乾燥で難解なわけではありません。本書は、金融、金融史の門外漢である人たちに入門書として書かれています。そのおかげで全体的に難しくないのに精巧な学術さも持っており、またドラマチックな面白さを持っています。この学術性と平易さの見事なバランスによって、読者は金融リテラシーが付くだけでなく知的好奇心を満たせることができるという、実に興味深い仕上りとなっているのが本書なのです。


テーマ自体が興味深いものである上に、楽しめる教養書として誰もが読める内容となっている本書。名著として評価されるに値する本書は是非とも多くの人に読んでもらいたいと思います。

肉食の思想

肉食の思想 / 鯖田豊

肉食の思想―ヨーロッパ精神の再発見 (中公文庫)

肉食の思想―ヨーロッパ精神の再発見 (中公文庫)

■食生活に由来したヨーロッパの思想
ヨーロッパで生まれた思想。それらはどこに起因しているか考える言説は少なくないです。それらは環境に原因を求めたり、歴史に求めたり、人種に求めたり、言語に求めたりもするかもしれません。実にさまざまなものです。


本書では、その思想的根底を歴史的・地理的条件に由来する食生活の伝統を断面にして掘り下げます。食生活という低次なレベルを通して高次なレベルである民族思想を分析する点だけでも特徴的で注目すべき理由となりますが、本書にはもう一つ注目すべき点があります。それは日本という尺度を通してヨーロッパを語るという比較文化史でもあるという点です。


この両者を併せ持って進められていく論述は独特です。しかし、十分な実例と統計を基盤として議論が進められていくことにより確固たる説得力をも見せる本書は、ヨーロッパの思想を語る上で参考になる良書である思います。


■肉食と断絶論理、そこから生まれた人間中心主義
ヨーロッパの地理的条件として、その涼しい気温と、広く貧しい土地があります。この環境下では穀物を主食とするほど豊かな生産が行えません。一方、牧畜には適しているため、肉食を食生活の基盤とせざるを得ませんでした。


この肉食を支えたのはキリスト教です。キリスト教では、人間以外の動物は全て人間のために存在するという教えがあります。人間と動物は明確に断絶されているのです。日本人の世界観では、人間も動物も「生物」というカテゴリに属す一種族に過ぎないという意識があり、人間と動物とを明確に区別しません。この点がヨーロッパ(キリスト教)と日本(仏教)の大きな違いといえます。
この人間と動物が断絶されていることを証明し続けるためにヨーロッパではあらゆるところに断絶論理を推し進めることになりました。本来、人間も動物の一種なのですから当然ほとんどの面において人間は動物的です。ですが、キリスト教の教義上、それを認めることができないため、人間は特殊であるということを公に宣言する儀式を作ることになりました。その派生でヨーロッパ特有の思想や制度、社会ができあった論理構成が本書の中心的テーマです。


人間中心主義と現実との妥協を付けるために創り上げられた論理が見事に説明されている話があります。
それは結婚です。
四足動物は人間と共通性があります。家畜が豊かだったヨーロッパでは、動物の性交渉と人間の性交渉が同じものであることに嫌でも気付かされました。ですが、キリスト教によれば人間と動物は断絶されていることになります。そこで使われたのが婚姻制度です。
婚姻儀式で人間に秘蹟を付与することにより、人間の性交渉は動物とは異なった行為であるという言い訳が出来上がるわけです。そのためにヨーロッパでの結婚観は日本のそれに比べれば非常に厳格なものでした。動物と人間が同じものであると認めるわけにはいかないわけですから、動物との差異として14親等以下での結婚を認めない、近親相姦に対する絶対的な忌避など、日本とは違った思想を持つこととなりました。人間は動物とは違うことを何としても証明する必要があったのです。


このような強迫的に人間的なものを追求せざるをえない人間中心主義は、社会組織、身分制度、教育制度、組合制度などヨーロッパのあらゆるものに影響を与えます。肉食とキリスト教が相まって出来上がった思想が、ヨーロッパの思想の根底となったのです。


■日本との差異
日本はなぜこのような人間中心主義が出来上がらなかったのか。その点についても説明されています。


最たる理由は、仏教の輪廻転生思想でしょう。あらゆる生物は輪廻するために結果的には人間は犬にも魚にもなる。だからこそ、人間と人間以外には厳格な断絶はなく、生き物というひとくくりで済むのです。そこからは差別的な思想はうまれず、全てを許容する思想が生まれます。差別・区別を推進する断絶論理とは対称的なのです。


■ヨーロッパの中心にあるのはキリスト教
本書は、肉食という観点を取り入れつつも、やはりキリスト教というヨーロッパの主柱について多くの言説を割いています。本書で、全ての思想の根本原因であるとしている断絶論理とそれを基にした人間中心主義もまたキリスト教の中心的な命題でありますから。ヨーロッパの思想をキリスト教という思想の巨人を省いて説明することは無理難題なのでしょう。


しかし、ただ観念的な論理と歴史を見て回りヨーロッパの思想を説明するのではなく、肉食という人間の生活に密に接した活動から思想が育まれていったという説明は、独創的で、魅力的で、実感できるものです。観念の積み重ねだけで民族全てに浸透するほどの思想ができるはずがないのです。思想というものは生活の中からしか発生することができない。その点に注目してできたのが本書なのでしょう。この点、本書は類書と一線を画すものであり、本書がより大勢の人に薦められる根拠だと思います。

われはロボット

われはロボット / アイザック・アシモフ

ロボット三原則

ロボット三原則
第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また人間が危害を受けるのを何も手を下さずに黙視していてはならない。
第二条 ロボットは人間の命令に従わなくてはならない。ただし第一条に反する命令はこの限りではない。
第三条 ロボットは自らの存在を護(まも)らなくてはならない。ただし、それは第一条、第二条に違反しない場合に限る。

ロボット三原則、誰でもどこかで聞いたことがある言葉だと思います。
この上記三原則は、実は正当な学問的な工学の原則ではなく、『われはロボット』を著した小説家アイザック・アシモフが着想したSF的アイディアです。ロボットは絶対的に人間に隷従した存在であり、その原則から外れたロボットは許されない。なぜなら、そのような原則がなければ人間以上の力を持ったロボットは人間に反抗するのが道理であるから。よって、このような原則が必要である、というわけです。
アシモフといえば『ファウンデーション』シリーズに代表される古典作品で有名なSF作家ですが、私は氏の著作を一冊も読んだことがありません。些か古すぎるだろうと。ですが、人工知能というジャンルには興味があります。その原石としてのアイディアが詰め込まれているこの大先生の著作ならば読んでみるのも良いのではないか、と思い、手に取った次第です。


■短編集
本作品は短編集です。
各短編は主人公スーザン・キャルヴィンというロボット心理学者の回顧録としてそれぞれ繋がり合った物語となります。時代は2000年から2100年のあいだくらい。2010年現在ではある程度、もう完成していなければならないみたいです。
ロボット心理学者とはなんぞやと思うでしょう。各編に登場するロボットは全て人工知能を搭載しています。その思考ができるロボットに設定されている三原則を、多様な現実に適用して考え、各ロボットが逐次どのように思考するのかを分析する職業みたいなものでしょうか。
各編で起こるロボットの社会不適合の問題。その問題を解決できる専門家であるキャルヴィン。そんな物語が9つ合わさったのが本書というわけです。


■人間味豊かなロボット
人工知能を持ったロボットというと様々なタイプがあります。人間味の有無、自律行動の有無など、精神特性、行動特性が異なったものがあります。ですが、特にメジャーなのはドラえもん鉄腕アトムのように人間と同じ精神を持ったタイプでしょう。
本作品のロボットも人間と同じ精神を持ったタイプに近いです。少しだけ違うのは、ロボット三原則が厳格に適用されているために、ある種の行動、思考が制限されていることです。この点、制約があるために起こる問題が本作品のテーマでもあります。


■形式的なストーリー
例を挙げます。星間ワープができる宇宙船の建造の可能性という問いをロボットに考えさせたらロボットが壊れた話があります。
この話では、この星間ワープの際には搭乗員は絶対に一度死んで再生される、という設定です。ですが、人間が結果的に再生されるにせよ、ロボットは人間に危害を加えることは許されていません。ですから設問にたいして解答不能に陥り自壊するわけです。
ではどうやって解決させるか、というのが話の大筋です。この大筋は他の短編でも同様です。人間の要求と三原則が一致しないときどのように行動するか。これが共通して描かれているのですね。短編で【問題提示→問題解決→問題解説】という決まった枠組みを丁寧に当てはめているわけですから、当然のこととして全ての話が形式的に似ています。同じ形式に沿った物語を読むのが好きな人には勧めやすいのではないでしょうか。


■古風なロボット観
ところで、この人間に害を為す解答を禁じられたロボットが自壊したという考えは、意外の中の意外でした。
今の時代でいえば、問題を考えさせたら壊れるなんて考えないでしょう。コンピュータ的に考えてアプリが停止しただけでOSは停止しない、ましてやハードウェアは壊れるなんてありえないという発想をすると思います。
ソフトウェアの問題でハードウェアが壊れるのはそう簡単じゃない、みたいな考えが根底にあるのかもしれません。その点、アシモフ(やその時代の人々)はハードウェアとソフトウェアを分けずに考えてたのでしょうか。今一わからないのですが、時代の差というものを感じますね。


■感想
本作品は、予想外の飛び抜けた展開によって読者を驚嘆させ魅了するわけではありません。物語としてある種の制約がおかれた現実的な世界を仮定し、その合理的な展開で納得させ魅了する型の作品です。幻想的な雰囲気はありません。アクションや冒険譚のようでもありません。いわゆるリアリティに傾いています。
そういったことから、人工知能というアイディアに興味があり、その運用においての思考実験に興味があるなーという人にはお勧めできるのはないでしょうか。