若き数学者のアメリカ

■若き数学者のアメリカ / 藤原正彦

若き数学者のアメリカ (新潮文庫)

若き数学者のアメリカ (新潮文庫)

題名のイメージに惹かれて買ってみました。珍しくどんな本かも考えずに買ったせいか本書を勝手に、数学を国家的に利用することを推進し始めたアメリカの話と見当違いな想像をしちゃってました。あれ〜、全然数学の話がないぞ。どういうことだと思ったら、”若き”が”アメリカ”ではなく”数学者”にかかっていたわけです。なんと間抜けな勘違い、無駄な出費だった、と落胆したものの読んでみると中身は興味深く面白い。調べてみると有名なエッセイだとか。決して悪い買い物でもないし、無駄でもない。運が良かったです。


あらすじ

1972年の夏、ミシガン大学に研究員として招かれる。セミナーの発表は成功を収めるが、冬を迎えた厚い雲の下で孤独感に苛まれる。翌年春、フロリダの浜辺で金髪の娘と親しくなりアメリカにとけこむ頃、難関を乗り越えてコロラド大学助教授に推薦される。知識は乏しいがおおらかな学生たちに週6時間の講義をする。自分のすべてをアメリカにぶつけた青年数学者の躍動する体験記
//裏表紙より

■理知的な文章
私が本書を気に入っている点として、理知的で美しい文章とその優れた分析力があります。


本書の著者が数学者であることが関係しているのか、全体的に冷静な視点で論理的に物事を語ろうという姿勢が強く見られます。
例えばラスヴェガスでカジノに嵌ってしまって虎の子の300ドルを失ったという話。それを要約してしまえば、負けたのが悔しくて感情にまかせて勝負を誤ったという話なのですが、「くやしい!ふざけるな!」という感情的な賭博師の回顧では終わりません。
その場面でなぜ自分は賭けに出たのか、周りのプレイヤーの様子は、勝負に対する理論的考察は、という止めどない冷徹な思考が存分に語られます。ひたすら周りに対して「なぜこれはこう存在しているのか」と問い掛け続ける観察者の視点が特徴的といえるでしょう。
その文章を読むと一見「本当は悔しくないのか」と思ってしまうのですが、ちゃんと読めば無感情なわけではありません。ただその場全体の様子を観察し分析するために達観し、自分自身の感情も観察対象とする距離の取り方が目立って悔しがってないように見えるだけなのです。


この事象、その事象から受ける感情、その感情を想起する自身とは如何なるものなのか。なぜこの山は美しくないと感じるのか。なぜ少女の言葉に涙が出るのか。なぜなぜなぜ。このようにひたすらに内省し、事実を理論に昇華させる努力が数多く見られます。そのせいか事実に対する描写よりも、その事実に対する著者の分析がやけに多かったという読後感が残りました。その分析の優秀さは数学に対してだけではありません。社会、人物、文化すべてに対する分析が優秀であることは珍しいと思います。
数学者は室内で閉じこもっていて社会に対しての視点は乏しいものであると思っていたのですが、こんなにも人文的な分析力も持っているのかと驚かざるを得なかったです。


■エネルギッシュな数学者
著者が数学者というと理屈屋であり詩的な側面はない、叙事的であり叙情的でない、という印象を持つ人がいるかもしれません。しかし、本書の目を見張るべきところは、徹底的に冷静に観察をするものの感情のほとばしりを蔑ろにせず、どんな情感が想起されたかを丹念に描いていることでしょうか。
外面は硬い皮膚に覆われているものの、内面は熱くたぎっている。そんな印象です。ですので読んでいて「淡々と話が進むなぁ」と不満げに思ったことは一度もありませんでした。物語らしく上手く纏められているせいか一気に読み進めることができ、読後感も好印象の一言です。


この精緻な分析と詩的な語りの融合ということを鑑みると、本書が名エッセイであると持て囃されているという事実に納得できました。